2025.07.03
「なぜ小さい時の記憶があるの?」高松空襲を経験した87歳の語り部が若い世代に託す戦争の記憶【香川】
「生きた心地がしなかった」高松空襲 「語り部」として活動する池田實さん(87)
7歳で高松空襲を経験し現在は、語り部として活動している男性が高松市にいます。空襲を知る人が少なくなる中、若い世代に伝えたい思いとは…
(池田實さん)
「爆音と空襲警報のサイレンと爆弾を破裂させる異様な音。最初の印象は音だった」
80年前、無数の焼夷(い)弾が落とされた高松のまちで当時の経験を語るのは、池田實さん(87)。7歳の時に高松空襲に遭いました。
(池田實さん)
「生きた心地がしなかった。煙と火の熱気とガスの臭いで息ができなかった」
辺りは火の海に…1359人の命を奪った高松空襲で見えたのは1キロあまり離れた「栗林公園」の山
1945年7月4日未明。アメリカ軍によって高松市に落とされた焼夷弾は、2時間も経たない間に市街地の約8割を焼き、1359人の命を奪いました。辺りは火の海に包まれ、被害にあった人は、当時の人口の6割以上に当たる8万6400人に上りました。
(池田實さん)
「一番印象に残るのが、自宅が焼け、(栗林)公園の山がものすごく近くに見えたこと。すぐ目の前に山が見えた。途中の建物が全部焼け落ちてなくなっている。煙と灰と電線が散らばっていて歩きかねるような所だった」
80年経った今でも目に焼き付く「生きているが焼けている人など、異常な惨状」
高松市塩上町で4人兄弟の末っ子として生まれた池田さん。一緒に暮らしていた家族は水田に入り全員無事でしたが、自宅と工場4棟は全て焼けました。
アメリカ軍の爆撃機が去ったあと家族とともに水を求めて歩いていた池田さん。そこで見た光景が今でも目に焼き付いています。
(池田實さん)
「大惨状。一番悲惨な所だった。ロータリーにしがみついたり真っ黒になったり、たどり着いた時は生きているが焼けている人など、異常な惨状だった」
「六角堂」に足を運ぶたびに「空襲がなかったら…」空襲の慰霊碑には姪の名前
高松市中野町にある高松空襲の慰霊堂、「六角堂」です。慰霊碑には、池田さんの姪の名前も刻まれています。
(池田實さん)
「ここですね。池田郁子。(逃げる)道中で焼夷弾の破片に当たって、姉は全然気付かず下ろそうと思って見たら亡くなっていた」
六角堂に足を運ぶたび、空襲がなかったらと考えるといいます。
(池田實さん)
「1歳未満の女の子が生きていたら80歳と思い感慨深い。空襲は天国から地獄」
あの日から80年。空襲の恐ろしさを目の当たりにした一人として、平和の尊さを伝え続けていきたいと考えています。
(池田實さん)
「戦争だけは絶対にしてはならない。戦争の怖さ、恐ろしさ、悲惨さ。元気な間は若い人たちに伝えていきたい」
「良い戦争もなければ悪い平和もない」伝えたいのは平和の尊さと戦争の恐ろしさ
◆丸亀市立富熊小学校にて
(池田實さん)
「きょうはおじいちゃんのために素晴らしい時間を取ってもらいありがとうございます」
6年生約40人を前に80年前の記憶を話します。
(池田實さん)
「衣食住が一瞬にしてなくなる。寝る所も住む所も食べる物も着る物も、教科書もおもちゃも、何にもなくなる。天と地が逆転したような状況」
◆質疑応答
Q:なぜ小さい時の記憶があるのですか?
「ショックが大きかった。忘れられない記憶。どの瞬間も思い出せる」
「良い戦争もなければ悪い平和もない」
池田さんが伝えたいのは、平和の尊さと戦争の恐ろしさについて「考える」ことです。
(池田實さん)
「戦争が起きないような状況を皆さんの手で作ってほしい。今年は戦後80年、節目の年。戦争が話題になると思うので、そのことをきょうの話の中で考えてもらいたい」
(拍手)
(児童は…)
「戦争といえば広島というイメージがあったが、広島だけでなく高松もひどい空襲を受けていたので、全国的にも平和を願っていきたいと感じた」
「空襲を体験した人たちの話を伝えて平和を守っていきたい」
高松空襲から2025年で80年。月日が流れ、まちの風景は変わりましたが、戦争の記憶は、決して途切れないよう、平和への思いを、次の世代に託します。
(池田實さん)
「絶対にしてはならないのは戦争。口で争うのはいいが、暴力を伴うような戦争はだめ。若い人たちが戦争の危険性を察知して、平和に向けて頑張ってもらいたい」
