岡山放送
2021.06.29
【特集】奇跡的な決断で生き抜いた女性 岡山空襲から76年 次世代に伝えたい思い【岡山】
市街地を焼きつくした岡山空襲、その空襲を奇跡的な決断で生き抜いた女性が岡山市にいます。壮絶な空襲を経験した女性が次世代に伝えたい思いとは。
(福間トキ子さん)
「トイレの窓が真っ赤になっていて。きっと触ったら熱くてそこから火が入ってくるかも分からない。その時に死ぬなって。ケガとかなんとかじゃなくて、死ぬなって」
岡山市北区に住む福間トキ子さん、89歳です。
現在は大好きな本に囲まれて日々を過ごす福間さん。そんな穏やかな日々は、あの日の奇跡的な決断が無ければやってこなかったかもしれません。
(福間トキ子さん)
「大きなターニングポイントに。そこから人生が、今までの人生とはまるで違った人生を歩んできた」
1945年6月29日の未明、アメリカ軍の爆撃機が岡山市中心部を襲いました。投下された焼夷弾は約10万発、1700人以上が死亡し、市街地の約6割が焼けてなくなりました。
空襲当時、福間さんは13歳、入院していた母親に付き添い、岡山医科大学の病棟で一夜を過ごしていました。
その時、夜の静寂が一瞬にして切り裂かれます。
(福間トキ子さん)
「母が、みんな起きて。飛行機よと大きな声で叫んだ。母が1番に見つけたんでしょうね。窓から見える点々のような飛行機を」
上空に突如現れたアメリカ軍の爆撃機。無数の焼夷弾が落とされ、病院にも火の手が迫りました。
(福間トキ子さん)
「看護婦さんが部屋に来て。屋上に爆弾が落ちているから、ここも危ない。みんな裏の運動場に逃げて下さい。お母さんは私がおんぶしますから。母が私は行きません。ここにおりますと言った。あんただけ行きなさいと母が言ったが、私もここにいるわと言った時に、みんなは逃げているのに私だけ母と2人だけ残って、ここで母と死ぬんだわと」
母と一緒に死ぬ覚悟を決めた福間さん。その判断が生死を分けました。福間さん親子は、焼失を免れた病棟の1階で奇跡的に生き残りました。外は一面焼け野原と化していました。
(福間トキ子さん)
「私の家も、ご近所さんも、全部焼けてしまって。家にいたら私生きていられなかったかもしれない。医大にいたから今生きていられる」
当時、福間さんの家は、現在の鹿田小学校のすぐそばにありました。
岡山空襲後の岡山市中心部の地図です。
赤の部分が空襲で焼失した地域を表していて、自宅のあった鹿田小学校周辺は、壊滅的な被害を受け、岡山医科大学は一部焼失を免れています。
終戦後の映像にも焼け残った病院の一部が映っています。
岡山大学病院に変わった今も被害を免れた病棟は残っています。
(奥原怜奈記者)
「こちらは当時福間さん親子が過ごした場所です。もし、あの日、自宅に帰っていたら福間さんの運命は大きく変わっていたのかもしれません」
(福間トキ子さん)
「たまたま前の日に荷物を持って帰って、その晩、母のところで寝たというのは、神様の思し召しで生かしてもらえた」
空襲後、岡山市内で難を逃れた父親と3人で暮らした福間さんは、教師の道に進み、小学校の教員として定年まで働きました。
(むらさき花だいこんの会)
「これが焼夷弾のレプリカ。結構ずっしり重たい」
退職した女性教職員で作る「むらさき花だいこんの会」です。福間さんは会のメンバーと一緒に、岡山空襲を語り継ぐ活動をしています。
福間さんは、この日も市内の中学校で講演しました。語りかけるのは、福間さんが空襲を体験した年齢と同じ、13歳の中学1年生です。
(福間トキ子さん)
「13歳の少女の私は死ぬと思った。今戦争のこと、空襲のことを語る時、何度語っても込み上げてくる。13歳の少女が死を感じるようなことがあっていいのかどうか。本当にこんなにつらくて痛いことはもう嫌です」
講演を聞いた子供達の感想文。平和の尊さ、命の大切さがつづられた戦争を知らない世代のメッセージは、福間さんの思いが伝わった証です。
(福間トキ子さん)
「戦争の悲惨さも、身内を失うことの悲しさも、何も分からない人たちに伝えて、その悲しみが平和への強い思いにつながるだろう。突き上げてくるような、語りたい思いがある間は語らないと」
同じ過ちを二度と繰り返さないために…。
福間さんを突き上げるその思いは、「生かされた」命が託す次世代へのメッセージです。
(福間トキ子さん)
「トイレの窓が真っ赤になっていて。きっと触ったら熱くてそこから火が入ってくるかも分からない。その時に死ぬなって。ケガとかなんとかじゃなくて、死ぬなって」

岡山市北区に住む福間トキ子さん、89歳です。

現在は大好きな本に囲まれて日々を過ごす福間さん。そんな穏やかな日々は、あの日の奇跡的な決断が無ければやってこなかったかもしれません。
(福間トキ子さん)
「大きなターニングポイントに。そこから人生が、今までの人生とはまるで違った人生を歩んできた」

1945年6月29日の未明、アメリカ軍の爆撃機が岡山市中心部を襲いました。投下された焼夷弾は約10万発、1700人以上が死亡し、市街地の約6割が焼けてなくなりました。
空襲当時、福間さんは13歳、入院していた母親に付き添い、岡山医科大学の病棟で一夜を過ごしていました。


その時、夜の静寂が一瞬にして切り裂かれます。
(福間トキ子さん)
「母が、みんな起きて。飛行機よと大きな声で叫んだ。母が1番に見つけたんでしょうね。窓から見える点々のような飛行機を」

上空に突如現れたアメリカ軍の爆撃機。無数の焼夷弾が落とされ、病院にも火の手が迫りました。
(福間トキ子さん)
「看護婦さんが部屋に来て。屋上に爆弾が落ちているから、ここも危ない。みんな裏の運動場に逃げて下さい。お母さんは私がおんぶしますから。母が私は行きません。ここにおりますと言った。あんただけ行きなさいと母が言ったが、私もここにいるわと言った時に、みんなは逃げているのに私だけ母と2人だけ残って、ここで母と死ぬんだわと」


母と一緒に死ぬ覚悟を決めた福間さん。その判断が生死を分けました。福間さん親子は、焼失を免れた病棟の1階で奇跡的に生き残りました。外は一面焼け野原と化していました。

(福間トキ子さん)
「私の家も、ご近所さんも、全部焼けてしまって。家にいたら私生きていられなかったかもしれない。医大にいたから今生きていられる」


岡山空襲後の岡山市中心部の地図です。

赤の部分が空襲で焼失した地域を表していて、自宅のあった鹿田小学校周辺は、壊滅的な被害を受け、岡山医科大学は一部焼失を免れています。

終戦後の映像にも焼け残った病院の一部が映っています。
岡山大学病院に変わった今も被害を免れた病棟は残っています。

(奥原怜奈記者)
「こちらは当時福間さん親子が過ごした場所です。もし、あの日、自宅に帰っていたら福間さんの運命は大きく変わっていたのかもしれません」

(福間トキ子さん)
「たまたま前の日に荷物を持って帰って、その晩、母のところで寝たというのは、神様の思し召しで生かしてもらえた」

空襲後、岡山市内で難を逃れた父親と3人で暮らした福間さんは、教師の道に進み、小学校の教員として定年まで働きました。

(むらさき花だいこんの会)
「これが焼夷弾のレプリカ。結構ずっしり重たい」

退職した女性教職員で作る「むらさき花だいこんの会」です。福間さんは会のメンバーと一緒に、岡山空襲を語り継ぐ活動をしています。

福間さんは、この日も市内の中学校で講演しました。語りかけるのは、福間さんが空襲を体験した年齢と同じ、13歳の中学1年生です。

(福間トキ子さん)
「13歳の少女の私は死ぬと思った。今戦争のこと、空襲のことを語る時、何度語っても込み上げてくる。13歳の少女が死を感じるようなことがあっていいのかどうか。本当にこんなにつらくて痛いことはもう嫌です」


講演を聞いた子供達の感想文。平和の尊さ、命の大切さがつづられた戦争を知らない世代のメッセージは、福間さんの思いが伝わった証です。


(福間トキ子さん)
「戦争の悲惨さも、身内を失うことの悲しさも、何も分からない人たちに伝えて、その悲しみが平和への強い思いにつながるだろう。突き上げてくるような、語りたい思いがある間は語らないと」

同じ過ちを二度と繰り返さないために…。
福間さんを突き上げるその思いは、「生かされた」命が託す次世代へのメッセージです。

