岡山放送
2026.09.25
もうひとつのWBC 障害者野球の世界大会 30年野球続けた主将の思いとは…【岡山】
2026年11月、北九州市で開かれる障がい者野球の世界大会に出場する日本代表チームのキャプテンに岡山の選手が選ばれました。約30年、野球一筋、野球にかける思いです。
体に障がいがあっても、自分のできる精いっぱいのプレーをする、それが障がい者野球のルールです。日本・アメリカ・韓国台湾・プエルトリコ。世界5つの国と地域が参加し、世界一を争う障がい者野球の世界大会が2026年11月、福岡県北九州市で開かれます。
結団式に集結した日本代表は25人。
(日本代表 槙原淳幹主将)
「障がい者野球には携わる選手一人一人に思いやドラマがある、私たちにしかできない技術や工夫もある そんなプレーや熱い思いをぜひ一人でも多くの人に見にきてもらい、ガチンコで他の国とぶつかり合う姿を応援してほしい」
日本代表のキャプテンを務めるのは、新見市に住む中学校教師槙原淳幹さん、37歳です。槙原さんは、岡山の障がい者野球チーム「岡山桃太郎」のキャプテンで、前回大会に続き2回目の日本代表入りを果たしました。
(日本代表 槙原淳幹 主将)
「とにかく自分は目の前の11月の世界大会で日本を世界一にするために全てをつぎ込みたい思い、後先考えずに(体が)壊れてもやりたい」
槙原さんは生後10カ月の時、事故で右腕が動かなくなりました。小学3年生で野球を始め、高校時代は新見高校の軟式野球部で、全国制覇を成し遂げます。障がい者野球チーム「岡山桃太郎」に加わったのは、中学3年生の時。槙原さんは、エースとして、打者としてチームを引っ張り「岡山桃太郎」は全国優勝する強豪チームに成長しました。
(日本代表 槙原淳幹 主将)
「野球は先生だと思っている、本当に多くのことを教えてくれた、これからもいろんな事を教えてもらいたい、今の使ってください、野球は先生っていうの使ってほしい僕的には」
将来は、子供たちに野球を教えたいと槙原さんは教師を志し新見市の中学校で野球部の顧問を続けています。取材を始めて3年目、母・昌枝さんが、初めて彼の障がいについて話してくれました。
(槙原さんの母・昌枝さん)
「走行中に車の戸が開いた、あっと言う間に落ちて、自分は何とか助けたいと右手をぐっと引っ張っていたこの手を離せばこの子は死んでしまうと思ったから、早く離せばよかったが、これ以上引き続けていたら余計に引きずられて死んでしまうと思ったので手を離した」
槙原さんの腕の神経は脊髄から抜け、手術しても回復しませんでした。
(槙原さんの母・昌枝さん)
「ちょっとやめてください」
(記者)
「野球をすると聞いた時の気持ちは?」
(母・昌枝さん)
「サッカーじゃないのと思った。足なら2本ついてるから」
槙原さんは、野球を選びました。
(日本代表 槙原淳幹 主将)
「手がすぐに抜けるようにゆるくして工夫して、みんなと同じグローブだったら、みんなと同じようには野球できない捕ってすぐ抜けるようにゆるくしている」
「幼い頃に手術を何回かしたその時のコルセットそれに針金を付けて縄跳びを付けたもの、右の肩にあてて固定してマジックテープを巻いてこちらを左手で持って跳んでいた、小学校の時ずっと使って100回以上跳べた」
「どうやって僕が爪を切ったり歯磨き粉を付けているか 床に座って右足の親指で上を抑えて爪を切る 歯磨き粉台があったら右手の腕で抑えて付ける歯ブラシを股に挟んでつけることもある こう考えて生活している」
「右手の機能を事故で失った。親は気にしただろうお母さんお父さんに伝えるとしたら、こんなに楽しい大学生活を送らせてもらっている、毎日楽しい、右手は使えなくなったが、こんなに楽しめるそんな命を助けてくれてありがとうと言いたい」
約30年にわたる野球人生・・・、槙原さんにいま、大きな試練が訪れました。
(槙原淳幹さん)
「こんにちは、失礼します」(長谷川紀念病院 長谷川賢也 院長)
「頑張ってここのところやってますね こうすると痛いんでしょ」
「腱板の一部が切れています。37歳でそこが切れるのは珍しい、珍しいがあなたの場合仕方ない左だけでやっているから」
槙原さんの左肩は、限界を迎えていました。今後の生活にも支障をきたす深刻な状態です。
(長谷川紀念病院 長谷川賢也 院長)
「野球のバットを本来両手で握って振るべきものを1本で振るというのはかなり(負担) やらない方がいい」
(日本代表 槙原淳幹 主将)
「痛みも尋常ではなかった。パフォーマンスも落ちてきた 年齢も37歳でプロ野球選手も引退することだし引退がよぎった」
「野球やっていたから体がダメになってしまったことの悔いは全くない、それよりも野球から与えてもらったものの方がたくさんある、野球への思いは変わらない」
*合宿
(日本代表 槙原淳幹 主将)
「この2日間もっとこうしたら強くなるんじゃないかなどの声をキャプテンに集めてもらって手応えある2日間にして11月には、よしやるぞという気持ちでまた集まろう」
*みんなで円陣
「さあ行こう」
合宿での練習試合。槙原さんは、マウンドに立つこともバッターボックスに立つことももうできません。それでも、自分にできることはあると日本代表のキャプテンを引き受けることにしました。
(槙原さん)
「ナイストライ ナイストライ」
【代走でチームに貢献】
(日本代表 槙原淳幹 主将)
「できないことを悲しむのではなく、どうやったらできるか考えていくというのは自分の人生でも、野球のグラブスイッチから教えてもらって、爪切り・歯ブラシにもつながったみんなこの場に来て同じことを考えているのがうれしい、野球というスポーツを通じて表現・共有しようというのがすてきな空間に感じる」
(日本代表 管野公治 監督)
「(槙原さんは)落ち着きと声の指示がしっかり出せることについて、練習でしっかり確認がとれた、これからもそういう部分で中心となって各選手を引っ張ってもらえれば」
(日本代表 槙原淳幹 主将)
「最後に大きな舞台に立てるということは非常にありがたい野球人生。黒い土の上に立っている時には目の前のボールを一生懸命追いかけることしか考えない、今回の世界大会どんな景色が見えるか楽しみ」
障がい者野球。そこには、彼らにしか伝えられない命の輝きと、野球への情熱が存在するのです。
体に障がいがあっても、自分のできる精いっぱいのプレーをする、それが障がい者野球のルールです。日本・アメリカ・韓国台湾・プエルトリコ。世界5つの国と地域が参加し、世界一を争う障がい者野球の世界大会が2026年11月、福岡県北九州市で開かれます。
結団式に集結した日本代表は25人。
(日本代表 槙原淳幹主将)
「障がい者野球には携わる選手一人一人に思いやドラマがある、私たちにしかできない技術や工夫もある そんなプレーや熱い思いをぜひ一人でも多くの人に見にきてもらい、ガチンコで他の国とぶつかり合う姿を応援してほしい」
日本代表のキャプテンを務めるのは、新見市に住む中学校教師槙原淳幹さん、37歳です。槙原さんは、岡山の障がい者野球チーム「岡山桃太郎」のキャプテンで、前回大会に続き2回目の日本代表入りを果たしました。
(日本代表 槙原淳幹 主将)
「とにかく自分は目の前の11月の世界大会で日本を世界一にするために全てをつぎ込みたい思い、後先考えずに(体が)壊れてもやりたい」
槙原さんは生後10カ月の時、事故で右腕が動かなくなりました。小学3年生で野球を始め、高校時代は新見高校の軟式野球部で、全国制覇を成し遂げます。障がい者野球チーム「岡山桃太郎」に加わったのは、中学3年生の時。槙原さんは、エースとして、打者としてチームを引っ張り「岡山桃太郎」は全国優勝する強豪チームに成長しました。
(日本代表 槙原淳幹 主将)
「野球は先生だと思っている、本当に多くのことを教えてくれた、これからもいろんな事を教えてもらいたい、今の使ってください、野球は先生っていうの使ってほしい僕的には」
将来は、子供たちに野球を教えたいと槙原さんは教師を志し新見市の中学校で野球部の顧問を続けています。取材を始めて3年目、母・昌枝さんが、初めて彼の障がいについて話してくれました。
(槙原さんの母・昌枝さん)
「走行中に車の戸が開いた、あっと言う間に落ちて、自分は何とか助けたいと右手をぐっと引っ張っていたこの手を離せばこの子は死んでしまうと思ったから、早く離せばよかったが、これ以上引き続けていたら余計に引きずられて死んでしまうと思ったので手を離した」
槙原さんの腕の神経は脊髄から抜け、手術しても回復しませんでした。
(槙原さんの母・昌枝さん)
「ちょっとやめてください」
(記者)
「野球をすると聞いた時の気持ちは?」
(母・昌枝さん)
「サッカーじゃないのと思った。足なら2本ついてるから」
槙原さんは、野球を選びました。
(日本代表 槙原淳幹 主将)
「手がすぐに抜けるようにゆるくして工夫して、みんなと同じグローブだったら、みんなと同じようには野球できない捕ってすぐ抜けるようにゆるくしている」
「幼い頃に手術を何回かしたその時のコルセットそれに針金を付けて縄跳びを付けたもの、右の肩にあてて固定してマジックテープを巻いてこちらを左手で持って跳んでいた、小学校の時ずっと使って100回以上跳べた」
「どうやって僕が爪を切ったり歯磨き粉を付けているか 床に座って右足の親指で上を抑えて爪を切る 歯磨き粉台があったら右手の腕で抑えて付ける歯ブラシを股に挟んでつけることもある こう考えて生活している」
「右手の機能を事故で失った。親は気にしただろうお母さんお父さんに伝えるとしたら、こんなに楽しい大学生活を送らせてもらっている、毎日楽しい、右手は使えなくなったが、こんなに楽しめるそんな命を助けてくれてありがとうと言いたい」
約30年にわたる野球人生・・・、槙原さんにいま、大きな試練が訪れました。
(槙原淳幹さん)
「こんにちは、失礼します」(長谷川紀念病院 長谷川賢也 院長)
「頑張ってここのところやってますね こうすると痛いんでしょ」
「腱板の一部が切れています。37歳でそこが切れるのは珍しい、珍しいがあなたの場合仕方ない左だけでやっているから」
槙原さんの左肩は、限界を迎えていました。今後の生活にも支障をきたす深刻な状態です。
(長谷川紀念病院 長谷川賢也 院長)
「野球のバットを本来両手で握って振るべきものを1本で振るというのはかなり(負担) やらない方がいい」
(日本代表 槙原淳幹 主将)
「痛みも尋常ではなかった。パフォーマンスも落ちてきた 年齢も37歳でプロ野球選手も引退することだし引退がよぎった」
「野球やっていたから体がダメになってしまったことの悔いは全くない、それよりも野球から与えてもらったものの方がたくさんある、野球への思いは変わらない」
*合宿
(日本代表 槙原淳幹 主将)
「この2日間もっとこうしたら強くなるんじゃないかなどの声をキャプテンに集めてもらって手応えある2日間にして11月には、よしやるぞという気持ちでまた集まろう」
*みんなで円陣
「さあ行こう」
合宿での練習試合。槙原さんは、マウンドに立つこともバッターボックスに立つことももうできません。それでも、自分にできることはあると日本代表のキャプテンを引き受けることにしました。
(槙原さん)
「ナイストライ ナイストライ」
【代走でチームに貢献】
(日本代表 槙原淳幹 主将)
「できないことを悲しむのではなく、どうやったらできるか考えていくというのは自分の人生でも、野球のグラブスイッチから教えてもらって、爪切り・歯ブラシにもつながったみんなこの場に来て同じことを考えているのがうれしい、野球というスポーツを通じて表現・共有しようというのがすてきな空間に感じる」
(日本代表 管野公治 監督)
「(槙原さんは)落ち着きと声の指示がしっかり出せることについて、練習でしっかり確認がとれた、これからもそういう部分で中心となって各選手を引っ張ってもらえれば」
(日本代表 槙原淳幹 主将)
「最後に大きな舞台に立てるということは非常にありがたい野球人生。黒い土の上に立っている時には目の前のボールを一生懸命追いかけることしか考えない、今回の世界大会どんな景色が見えるか楽しみ」
障がい者野球。そこには、彼らにしか伝えられない命の輝きと、野球への情熱が存在するのです。
