2024.06.28
岡山空襲当時は5歳「経験を話すのは私の役目」父から継いだ広告代理店で語る戦火の記憶【岡山・岡山市】
2000人を超える犠牲者が出た岡山空襲から2024年6月29日で79年。当時を知る人は高齢化が進み、年々、語り部が少なくなってきています。当時5歳で戦火を潜り抜け、現在、広告代理店で会長を務める男性が空襲体験を語りました。
(ビザビ 前坂匡紀会長)
「恐らくこの辺から出たと思う。真っすぐ、ずっと行ったと思う。それで向こうへダーッと逃げた。ひたすら」 幼少期の体験を語るのは、岡山市の総合広告代理店、ビザビの前坂匡紀会長(84)です。 (ビザビ 前坂匡紀会長)
「パラパラパラパラパラパラっていう。ヒューとかなんじゃないですね。何かばらけたようなパラパラパラって落ちてきているようだった。あれがきっと後から考えると焼夷(しょうい)弾。そんな感じだった」 1945年6月29日未明の岡山空襲。父親が経営するビザビの前身、大毎広告社の社屋兼住宅で父、正一さん、母、光子さん、そして2人の弟と祖母の6人で暮らしていました。 空襲当日、父親はおらず母親(当時29歳)は1歳半の三男を背負い、3歳の次男と5歳の前坂さんの手を握って南へ逃げました。 (ビザビ 前坂匡紀会長)
「恐らく、この一角だと思う。この小玉促成青果、ここら辺がそうだった。この辺に氷屋があって」 米軍の爆撃機B29、138機が放った焼夷弾は約890トン。弾を避けながら逃げる途中、母親は突然、前坂さんと次男の手を離しました。 (ビザビ 前坂匡紀会長)
「焼夷弾が降ってくるもんですから、落ちたら危ないみたいな感じだった。逃げる途中でご近所のどこかのお家に(母親が1人で)入って、(持ってきた)布団を上に被るような形で、母親がそれをやった記憶がある。まあわずかな時間だったが、そのわずかな時間がすごく長くて不安だった」 そして家族がたどり着いたのは約700メートル先の京橋のたもと。 (ビザビ 前坂匡紀会長)
「ああいうところにずっとうずくまっていたと思う。ザーッと(ほかの人も)集まってきたと思う。(母親は)弟らのことで精一杯だから兄ちゃんは黙ってじっとしておれ、ということだと思う」
この川べりで身を伏せている最中、前坂さんは生きた心地がしなかったと言います。 (ビザビ 前坂匡紀会長)
「旭川の中にドーンドーンドボーンと(弾が)落ちている音がした。結局、音があって(着弾の)結果がわかるわけで、そういう中で、本当にビクビクしながら母親にしがみついていたんだろうと思う」 午前2時43分に始まった岡山空襲は4時7分まで84分間続きました。 (ビザビ 前坂匡紀会長)
「起きていた。朝まで起きていて、空襲も終わったとなったら、みなさん三々五々、自分の目的地へ動き出したと思う。薄暗く、明るさが戻ってからあちらへ歩いて行った。もう何もない。きれいに焼け原」 これは当時の岡山市の防空本部と警防課が当日の午前10時に調べた市内の消失範囲の記録です。当時の市街地の63%、約5.5平方キロメートルを焼き尽くし、前坂さん家族が暮らしていた建物も例外ではありませんでした。
(ビザビ 前坂匡紀会長)
「岡山が本当に焼け野原になって、あのあたりが家の跡だったんかな、みたいなことを思うと、この写真が一番私としては突き刺さりますね」
戦時中をうかがい知る物として唯一残ったのがこの写真。親族が持っていたものを譲り受けました。 (ビザビ 前坂匡紀会長)
「はしごがかかってますよね。だから焼夷弾なんかで火災になるから、それを水でかけて消せという訓練ではないかなと想像するんです。ですから、うちの母親なんかも出てきて、自分とこの家だからやってるということではないかと思うんですけどね」 戦後、前坂さんが学生のころ、父親は脳溢血(のういっけつ)で急逝しました。大学を中退し、会社を引き継いだ前坂さんは今もあの時と同じ場所で、働いています。 (ビザビ 前坂匡紀会長)
「不幸な出来事だったが、やはりこの時期にもう1度ああいうこともあるんだよということを、もう1度思い起こすことは私みたいに多くの人に話すことのない人間でも何かの機会で聞かれると、ささやかな経験の中で話すことはできるので、これは経験した私の役目だと思う」
(ビザビ 前坂匡紀会長)
「恐らくこの辺から出たと思う。真っすぐ、ずっと行ったと思う。それで向こうへダーッと逃げた。ひたすら」 幼少期の体験を語るのは、岡山市の総合広告代理店、ビザビの前坂匡紀会長(84)です。 (ビザビ 前坂匡紀会長)
「パラパラパラパラパラパラっていう。ヒューとかなんじゃないですね。何かばらけたようなパラパラパラって落ちてきているようだった。あれがきっと後から考えると焼夷(しょうい)弾。そんな感じだった」 1945年6月29日未明の岡山空襲。父親が経営するビザビの前身、大毎広告社の社屋兼住宅で父、正一さん、母、光子さん、そして2人の弟と祖母の6人で暮らしていました。 空襲当日、父親はおらず母親(当時29歳)は1歳半の三男を背負い、3歳の次男と5歳の前坂さんの手を握って南へ逃げました。 (ビザビ 前坂匡紀会長)
「恐らく、この一角だと思う。この小玉促成青果、ここら辺がそうだった。この辺に氷屋があって」 米軍の爆撃機B29、138機が放った焼夷弾は約890トン。弾を避けながら逃げる途中、母親は突然、前坂さんと次男の手を離しました。 (ビザビ 前坂匡紀会長)
「焼夷弾が降ってくるもんですから、落ちたら危ないみたいな感じだった。逃げる途中でご近所のどこかのお家に(母親が1人で)入って、(持ってきた)布団を上に被るような形で、母親がそれをやった記憶がある。まあわずかな時間だったが、そのわずかな時間がすごく長くて不安だった」 そして家族がたどり着いたのは約700メートル先の京橋のたもと。 (ビザビ 前坂匡紀会長)
「ああいうところにずっとうずくまっていたと思う。ザーッと(ほかの人も)集まってきたと思う。(母親は)弟らのことで精一杯だから兄ちゃんは黙ってじっとしておれ、ということだと思う」
この川べりで身を伏せている最中、前坂さんは生きた心地がしなかったと言います。 (ビザビ 前坂匡紀会長)
「旭川の中にドーンドーンドボーンと(弾が)落ちている音がした。結局、音があって(着弾の)結果がわかるわけで、そういう中で、本当にビクビクしながら母親にしがみついていたんだろうと思う」 午前2時43分に始まった岡山空襲は4時7分まで84分間続きました。 (ビザビ 前坂匡紀会長)
「起きていた。朝まで起きていて、空襲も終わったとなったら、みなさん三々五々、自分の目的地へ動き出したと思う。薄暗く、明るさが戻ってからあちらへ歩いて行った。もう何もない。きれいに焼け原」 これは当時の岡山市の防空本部と警防課が当日の午前10時に調べた市内の消失範囲の記録です。当時の市街地の63%、約5.5平方キロメートルを焼き尽くし、前坂さん家族が暮らしていた建物も例外ではありませんでした。
「岡山が本当に焼け野原になって、あのあたりが家の跡だったんかな、みたいなことを思うと、この写真が一番私としては突き刺さりますね」
戦時中をうかがい知る物として唯一残ったのがこの写真。親族が持っていたものを譲り受けました。 (ビザビ 前坂匡紀会長)
「はしごがかかってますよね。だから焼夷弾なんかで火災になるから、それを水でかけて消せという訓練ではないかなと想像するんです。ですから、うちの母親なんかも出てきて、自分とこの家だからやってるということではないかと思うんですけどね」 戦後、前坂さんが学生のころ、父親は脳溢血(のういっけつ)で急逝しました。大学を中退し、会社を引き継いだ前坂さんは今もあの時と同じ場所で、働いています。 (ビザビ 前坂匡紀会長)
「不幸な出来事だったが、やはりこの時期にもう1度ああいうこともあるんだよということを、もう1度思い起こすことは私みたいに多くの人に話すことのない人間でも何かの機会で聞かれると、ささやかな経験の中で話すことはできるので、これは経験した私の役目だと思う」