2022.06.30
未来を担うものが死ぬ ウクライナでは同じ過ちが…岡山空襲を経験した夫婦の平和への願い【岡山】
太平洋戦争末期に1700人以上が犠牲となった岡山空襲から、6月29日で77年です。
岡山空襲の経験者は、ロシアのウクライナ侵攻など、平和が脅かされているいま何を思うのでしょうか?
防空壕に逃げ込む人や道端で寝る子供…戦争はいつの時代も無辜(むこ:罪のない)の市民が犠牲になり、深い悲しみと決して消えることのない遺恨を刻みつけます。
岡山市中区門田屋敷に住む成田昌士さん(85)と美津穂さん(85)夫婦。当時小学生だった2人は、市内の別々の場所で岡山空襲を経験しました。
小学2年生だった夫の昌士さんは、日中戦争から太平洋戦争へと激化する戦禍の中で育ちました。 (小学2年で空襲を経験 成田昌士さん 85)
「幼稚園の時の運動会は「戦争ごっこ」。塀にルーズベルト(元アメリカ大統領)の大きな絵が貼ってあるのに向かって竹を持っていき破る。ヤー!と言いながら。破れてしまったら勝ったというしるしで 、バンザイバンザイと言う。そういう競技だった。しまいには勉強なんかしていなかった」
そして…1945年6月29日、午前2時43分、岡山市中心部の上空をアメリカ軍の爆撃機B29が襲いました。 現在のNTTクレド岡山ビルを中心に、半径約1.2キロが爆撃の標的となり、1700人以上が死亡。昌士さんが当時住んでいた中区門田屋敷も攻撃を受けました。
(成田昌士さん)
「岡山の場合はサイレンが鳴らなかった。突如落ちてきたドーンと。バーンドーンという強力な音がして、びっくりして母親に起こされた」 「その時には、もうここが真っ赤に燃えていた」 「勝手口から池へ向かって逃げた。家の裏の東湖園というところ。池の中に入れと言われ、入っていた。風呂に入るように首まで入り、じーっとしていた」 「そうしたらそこへ落ちた。焼夷弾が」
飛び込んだ家の裏の池から母親に抱えられた昌士さん。炎に包まれた見慣れた道を必死で逃げました。 (成田昌士さん)
「逃げてきたのはこの辺。斜めになっているところに腰掛けて、まちを見ていた」 「こっちを見たときには、もう、岡山市全体が燃えていた。全部燃えていて、見ていたら、ドドドーンと音がした。常にブーンという音がして、 (爆撃機が)舞っていて爆弾を落としていく。この上に突然落ちた。その時の悲鳴は「助けて」という事は言わず、ウワァーという悲惨な声。焼けた人が降りてくると、 顔の皮膚がむけていた」
1時間半の間に落とされた焼夷弾は約10万発。市街地の60%以上が焼け野原になりました。 昌士さんの家も焦土と化し、身を寄せたのは近所の寺の門の下でした。 (成田昌士さん)
「1カ月ほど疎開して、ここに帰ってきた。終戦の年に。こっち側を部屋にしていた。もうめちゃくちゃだった。焼けた木を拾って持ってきて、打ち付けて、向こう側に屋根を広げた。ここには2年ぐらい居た。この門はその時の命の恩人」 本堂が焼失するなか、その姿を現在に唯一残す三友寺の山門。爆撃による焼け跡と刻まれた傷が戦争の悲惨さを物語っています。 戦火を生き抜いた昌士さんと61年間連れ添う妻の美津穂さんも空襲の経験者です。 小学3年生だった美津穂さんは、爆撃の中心からわずか400メートル程の場所に住んでいました。 昌士さんがあの時、山から見下ろしていた火の海の中です。 (小学3年で空襲を経験 成田美津穂さん 85)
「防空頭巾を被ることになっていたので、被って西川の縁へ。細い道を抜けて、川縁に出ていくと、目の前を大勢の死んだ人が流れていっていた」 「大きな女の人が焼けて、ただれて、目の前に立っているのを見たり、焼けてばらばらになっている人も見た。とにかくいっぱい人が流れていた」
多くの犠牲者と深い悲しみを生んだ岡山空襲から77年…。ウクライナでは、同じ過ちが繰り返されようとしています。
(成田昌士さん)
「あんなのを見たらショックを感じる。岡山空襲より激しい。昔は上から爆弾を落とすだけだったが、今はもうどこへでも飛ばせる。戦争はいけないということになっても。どうしても繰り返す。腹が立ってしょうがない」 連日報道される現地の様子が、あの日の光景と重なり、今もなお、当時の自分と同じような子供たちの命が脅かされていることに憤りを覚えています。
(成田美津穂さん)
「無残です。戦争はあってはいけない。」
(成田昌士さん)
「あってはいけないけれど、今も戦争になりかけている」
(成田美津穂さん)
「戦争はだめ、戦争はだめ…」 (成田昌士さん)
「若い人が死ぬ。それはもう絶対にいけない。未来を担うものがみんな死ぬ。戦争は絶対にしてはいけない」 戦争は絶対にしてはいけない…。空襲から77年の時を経た今、当時を知る2人の言葉はその重みを増しています。
岡山空襲の経験者は、ロシアのウクライナ侵攻など、平和が脅かされているいま何を思うのでしょうか?
防空壕に逃げ込む人や道端で寝る子供…戦争はいつの時代も無辜(むこ:罪のない)の市民が犠牲になり、深い悲しみと決して消えることのない遺恨を刻みつけます。
岡山市中区門田屋敷に住む成田昌士さん(85)と美津穂さん(85)夫婦。当時小学生だった2人は、市内の別々の場所で岡山空襲を経験しました。
小学2年生だった夫の昌士さんは、日中戦争から太平洋戦争へと激化する戦禍の中で育ちました。 (小学2年で空襲を経験 成田昌士さん 85)
「幼稚園の時の運動会は「戦争ごっこ」。塀にルーズベルト(元アメリカ大統領)の大きな絵が貼ってあるのに向かって竹を持っていき破る。ヤー!と言いながら。破れてしまったら勝ったというしるしで 、バンザイバンザイと言う。そういう競技だった。しまいには勉強なんかしていなかった」
そして…1945年6月29日、午前2時43分、岡山市中心部の上空をアメリカ軍の爆撃機B29が襲いました。 現在のNTTクレド岡山ビルを中心に、半径約1.2キロが爆撃の標的となり、1700人以上が死亡。昌士さんが当時住んでいた中区門田屋敷も攻撃を受けました。
(成田昌士さん)
「岡山の場合はサイレンが鳴らなかった。突如落ちてきたドーンと。バーンドーンという強力な音がして、びっくりして母親に起こされた」 「その時には、もうここが真っ赤に燃えていた」 「勝手口から池へ向かって逃げた。家の裏の東湖園というところ。池の中に入れと言われ、入っていた。風呂に入るように首まで入り、じーっとしていた」 「そうしたらそこへ落ちた。焼夷弾が」
飛び込んだ家の裏の池から母親に抱えられた昌士さん。炎に包まれた見慣れた道を必死で逃げました。 (成田昌士さん)
「逃げてきたのはこの辺。斜めになっているところに腰掛けて、まちを見ていた」 「こっちを見たときには、もう、岡山市全体が燃えていた。全部燃えていて、見ていたら、ドドドーンと音がした。常にブーンという音がして、 (爆撃機が)舞っていて爆弾を落としていく。この上に突然落ちた。その時の悲鳴は「助けて」という事は言わず、ウワァーという悲惨な声。焼けた人が降りてくると、 顔の皮膚がむけていた」
1時間半の間に落とされた焼夷弾は約10万発。市街地の60%以上が焼け野原になりました。 昌士さんの家も焦土と化し、身を寄せたのは近所の寺の門の下でした。 (成田昌士さん)
「1カ月ほど疎開して、ここに帰ってきた。終戦の年に。こっち側を部屋にしていた。もうめちゃくちゃだった。焼けた木を拾って持ってきて、打ち付けて、向こう側に屋根を広げた。ここには2年ぐらい居た。この門はその時の命の恩人」 本堂が焼失するなか、その姿を現在に唯一残す三友寺の山門。爆撃による焼け跡と刻まれた傷が戦争の悲惨さを物語っています。 戦火を生き抜いた昌士さんと61年間連れ添う妻の美津穂さんも空襲の経験者です。 小学3年生だった美津穂さんは、爆撃の中心からわずか400メートル程の場所に住んでいました。 昌士さんがあの時、山から見下ろしていた火の海の中です。 (小学3年で空襲を経験 成田美津穂さん 85)
「防空頭巾を被ることになっていたので、被って西川の縁へ。細い道を抜けて、川縁に出ていくと、目の前を大勢の死んだ人が流れていっていた」 「大きな女の人が焼けて、ただれて、目の前に立っているのを見たり、焼けてばらばらになっている人も見た。とにかくいっぱい人が流れていた」
多くの犠牲者と深い悲しみを生んだ岡山空襲から77年…。ウクライナでは、同じ過ちが繰り返されようとしています。
(成田昌士さん)
「あんなのを見たらショックを感じる。岡山空襲より激しい。昔は上から爆弾を落とすだけだったが、今はもうどこへでも飛ばせる。戦争はいけないということになっても。どうしても繰り返す。腹が立ってしょうがない」 連日報道される現地の様子が、あの日の光景と重なり、今もなお、当時の自分と同じような子供たちの命が脅かされていることに憤りを覚えています。
(成田美津穂さん)
「無残です。戦争はあってはいけない。」
(成田昌士さん)
「あってはいけないけれど、今も戦争になりかけている」
(成田美津穂さん)
「戦争はだめ、戦争はだめ…」 (成田昌士さん)
「若い人が死ぬ。それはもう絶対にいけない。未来を担うものがみんな死ぬ。戦争は絶対にしてはいけない」 戦争は絶対にしてはいけない…。空襲から77年の時を経た今、当時を知る2人の言葉はその重みを増しています。